目 次
Welcome to クルサー・リッリエイ
クルサー・リッリエイの「お母さん」
クルサー・リッリエイの子供たち
クルサー・リッリエイ前史
(2007年10月まで)
クルサー・リッリエイ誕生以後
(2007年10月以後)
支援ネットワーク
教育支援の里親
Self-Help プロジェクト
クルサー・リッリエイ収支報告
近  況
「クルサー・リッリエイ便り」
現地からの報告
参 考 資 料
アピールT20005年9月15日
アピールU 2006年1月
アピールV 2006年6月
アピールW 2007年1月
オーストラリア大使館への抗議メールT2005年9月
オーストラリア大使館への抗議メールU2006年3月
『カンボジア・デイリー』掲載記事
David Jarboe氏の証言
子供たちの手紙(全23通) 2005年6・8月
子供たちの手紙(全16通) 2006年1月
子供たちの手紙(抜粋5通)
サンライズ会長コックス氏とのメール交信記録
少女Tの日記
少女Kの日記

                      クルサー・リッリエイ前史
              NGOが子供たちを兵糧攻め?!
 

クルサー・リッリエイの前身はシェムリアップ州立孤児院SRPO = Siem Reap Provincial Orphanae)です。政府がオールドマーケット近くに提供した敷地に複数のNGOや個人の寄付によって建てられた幾棟かの施設が立ち並んでいますが、敷地の一番奥にあるのがSRPOです。運営主体は政府、正確に言うと社会福祉省でした。200411月までは政府が米、水、薪、電気代のほか、食費として1日あたり4.5$(孤児一人につき0.075$)、さらにはスタッフのトーラエムさんに月給として13$を支給していました。もちろんこの金額では乳児(乳児用ミルクは結構高価)や育ち盛りの60人の子供たちの養育費としては不足でした。加えて、学校に行く子供たち、英語を習う子供たちには、別途に教育費として現金が必要でした。この不足分を補ってきたのが、この孤児院を訪れてくる多くの旅行者の寄付です。クルサー・リッリエイの壁面に張られている写真を見ると、かつて世界中から様々な人たちがここを訪れて子供たちを支援してきたことが分かります。 

特に1999年から2004年までキリスト教系NGOスタッフとしてシェムリアップに住んでいたDavid Jarboeは、5年間にわたってSRPO支援に尽力しました。日常の生活支援に加え、現在の住居の一部、台所、トイレ、ベッド、ロッカー、井戸、フェンス、滑り台等を作ってくれたのです。氏の証言ビデオは当時トーラエムさんや子供たちと誰よりも身近に接していた者の視点から、様々な内情を伝えています(「Devid Jarboe氏の証言」)。

2004年にDavid Jarboe氏がシェムリアップを離れてプノンペンに移動するのとほぼ時期を同じくして、プノンペンで孤児院を運営しているオーストラリアのNGO、サンライズが進出することになりました。この知らせに接し、David Jarboe氏は安堵に胸をなでおろし、またトーラエムさんも子供たちも、サンライズという新しい強力な支援者の登場に大きな期待を寄せていました。ところがその期待はやがて完全に裏切られることになったのです。 

サンライズ」とはオーストラリアのNGOThe Australia Cambodia Foundation Inc.Sunrise Angkor Children’s Village (www.sunrisechildrensvillage.org) の通称です。会長のコックス氏は長年カンボジアで特に孤児支援に尽力した功績を認められ、フンセン首相からカンボジア名誉市民の称号を与えられた元外交官です。フンセン首相からの後押しもあったのでしょう、サンライズは政府社会福祉省から正式にシェムリアップでの事業展開を認可され、SRPOおよびSRPOの手前に位置するメインストリート沿いの孤児院(同じく以前は政府管掌の孤児院)の管理運営を委託されました。事実、200410月ごろには後者の孤児院はSunrise Angkor Children’s Villageとして衣替えし、いつの間にか以前そこに暮らしていた年長者(10代後半)の子供たちはどこかに消え、代わりに年少の子供たちがどこからか入ってきて暮らしていました(因みにこの子供たちはほとんどが親か親戚がいる子供たちです)。その後、11月になって、政府からSRPOのトーラエムさんのところにも正式に通知があり、政府は今後孤児院運営から手を引き、SRPOの運営はサンライズが行うことになったと知らされました。つまりサンライズは支援者としてではなく、新たな経営者として登場してきたわけです。ところがこの経営者は初めから自らの思惑を優先し、子供たちの気持ちと生活をズタズタに切り裂いて省みることがなかったのです。 

 2004年の8月から9月にかけてサンライズの会長コックス氏や事務局長トレバー氏は事前交渉のため幾度かSRPOを訪れました。このときすでにサンライズはSRPOの施設を解体した上、そこに総二階建てのビルを新築する青写真を描いていました。それと同時にサンライズはこの時点でもう何故かトーラエムさん排除の方針を決めていました。その後、社会福祉省の担当官に説得されてトーラエムさんにポストをオファーはしたのですが、オファーの内容は、自らを子供たちの母親と考えるトーラエムさんには受け入れがたいものでした。すなわち、サンライズ職員として勤務する以上、施設で子供たちとともに寝泊まりせず、夜は自宅に帰るべし、というものだったのです。敢えて無理な条件を付けることによって、オファーを蹴ったのはトーラエムさんの方であるという論拠を手に入れるのがサンライズの目論見でした。事実、この論拠を盾にとってサンライズは再び政府にトーラエムさん排除を迫るととともに、トーラエムさんと子供たちを分断する作戦に出ました。 

20041130日、サンライズはSRPOの子供たち全員を招待して自らの施設を案内し、物質的な豊かさで子供たちを釣ろうとしたのです。ところがここでサンライズは子供たちの意外な反応に戸惑うことになります。つまり、「サンライズ傘下での豊かな生活」か、それとも「トーラエムさんと一緒の貧しい生活」か、という選二者択一を前にして、子供たちは迷うことなく「母親」を選んだからです。サンライズにとっては計算外の結果でした。理解しがたい子供たちの反応を説明すべく、子供たちはトーラエムさんによって洗脳されていると言い出した時点で、サンライズは子供たちの心を真に理解する努力を早々と放棄したわけです。理解する努力をする代わりに、サンライズは「洗脳された」子供たちに攻撃を加え始めたのです。 

2004121日、すなわち子供たちの取り込みに失敗した翌日、サンライズは路地奥のSRPOに通じる水道を止めました。以来今日に至るまで、SRPOの台所にある水道の蛇口をひねっても、一滴の水も出てきません。また12月に入ってサンライズはSRPOに対する運営責任を政府から委ねられながら、これまで政府が行っていた金銭・現物支給を完全に停止しました。それのみならず、メインストリート沿いの入り口にゲートを設置し、警備員を配置し、SRPOを訪問・支援しようとする外国人に対して規制・検問を開始したのです。子供たちを攻撃対象とした悪質きわまる兵糧攻めの開始です。事態の異常さに気がついたSRPO2人の女の子は、この頃から日記をつけ、サンライズの行為を逐一記録し始めました。 

2005222日、サンライズ事務局長トレバー氏は、測量調査のためと称してSRPOに立ち入った際、SRPOの一室に鍵をかけて閉じこもった少年を脅かすためサンライズの男性スタッフに部屋のドアを蹴らせるという事件がありました。また3月に入ると、サンライズはSRPOへの送電を絶ちました(アピールWを参照)。1年の中でも暑さが最も厳しいこの時期、送電停止が子供たちの生活に甚大な影響を及ぼしたのは当然です。夜になっても灯りがなく、子供たちは煙と悪臭に耐えつつ灯油ランプで勉強するしかありませんでした。また年少の子供たちは寝苦しい夜を扇風機なしで過ごした結果、伝染性の皮膚病が蔓延しました。皮膚病の事実だけを取り上げて、それはSRPOの環境が劣悪であり、トーラエムさんのケアーが不十分だからだと短絡的に結論づける人もいましたが、皮膚病の種を蒔いたのは明らかにサンライズだったのです。

これらの異常事態に気がついた私(伊藤聡)は、真相の調査を開始するとともに、プノンペンのDavid Jarboe氏および以前からSRPOを支援してきたマレーシア在住の米人Bob Lee氏と連携しながら、行動を起こしました。私たちはサンライズ現地オフィスのマネージャー、ダレン・ローズ氏とボンナ氏を訪ね、あるいはトレバー氏に電話をかけて、送電停止の事実を確認するとともに、その理由を追及しました。彼らはいずれも送電停止の事実を認めはしたものの、その行為の不当性を認めようとはしなかったため、私は3回にわたり、サンライズの会長コックス氏に抗議のメールを送りました。仮にも孤児院を運営するNGOが子供たちに犠牲を強いるような犯罪行為をするはずはない、もしかしたらこれは一部のスタッフが暴走しているだけではないか、と一縷の望みをもって、サンライズのトップに直訴したわけです。が、コックス氏の回答は当たり障りのない建て前を述べ立てるだけで、送電停止という犯罪行為にはいっさい触れようとせず、自分は資金集めで忙しいから後は実務責任者であるトレバー氏に聞けと言って、対話を打ち切ってきたのです(「サンライズ会長コックス氏とのメール交信記録」)。

サンライズからトーラエムさん排除の要請を受けたと思われる社会福祉省は、トーラエムさんに対し330付けをもって孤児院から退去すべしとの命令を送付しました。この最初の危機に際して、私たちの支援体制はまだあまりに無力であったため、私たちは知り合いを通じてフンシンペック党中央の有力政治家に助けを依頼するしかすべがありませんでした。普通の賄賂慣れした政治家であれば数百ドルあるいは千ドル超の報酬を要求するところですが、この政治家は僅か150ドルの報酬(交通費、宿泊費等の経費込み)で2度シェムリアップまでバスで馳せ参じ、子供たちやトーラエムさんの話に耳を傾けた上で数日間精力的に動き、シェムリアップ州知事にも働きかけてくれました。その甲斐あってか、330日、警察の実力行使部隊がトーラエムさん排除のために一度は孤児院敷地に立ち入ったものの、最終的には事なきを得ました。とはいえ、4月以降もサンライズによる兵糧攻めは続き、SRPOを訪れてくる支援者はことごとくサンライズの検問にかかって追い返され、支援物資はしばしばサンライズによって横領されました。この時期、サンライズは訪問者を追い返す口実として、「政府が外部の人間のSRPO訪問を禁じている」と言い続けていましたが、これはまったくの虚言です。

私たちは事態を打開するため、622日、私たちはトレバー氏との話し合いに臨みました。話し合っても意味がないと言って幾度も話し合いを拒んできたトレバー氏ですが、いざ話し合いの席に臨んでも彼はトーラエムさんの退職はすでに決まったことだの一点張りで、「話し合う」姿勢を全く見せませんでした。

7月に入り、社会福祉省は、トーラエムさんを930日付けで退職させ、1031日までにSRPOを退去させるという決定を下しました。カンボジア公務員法にはたしかに55歳定年退職という規定があります。しかし実際にこの規定が適用されるのはむしろ稀であるというのが現実です。にもかかわらず、子供たちが「お母さん」として慕うトーラエムさんに今回この規定が適用された背景には、明らかにサンライズ側からの働きかけがあったと考えられます。事実、トレバー氏もコックス氏も私たちから抗議を受ける度、− 私たちの抗議に真正面から答える代わりに ? いつも政府高官と会談を行うという仕方で事態の政治的解決を図ってきました。彼らの目は子供たちにも私たちにも向けられず、いつも権力者と資金提供者ばかりに向けられているのです。

1031日というデッドラインがしだいに迫り来る中、私たちは危機を回避するため、あらゆる手段を試みました。資金力を背景にカンボジアの権力を味方につけたサンライズに対抗するには、国内外の良識に訴えるしか方法がありません。

7月、私たちはSRPO3人の子供たちを伴い、プノンペンで『カンボジア・デイリー』社を訪れました。同社は反骨のユダヤ人Bernard Krisher氏が立ち上げた新聞社です。後に私は日本で同氏を訪問しましたが、氏は新生カンボジアに必要なものは学校と病院と健全な批判精神をもった新聞社だという信念の下に、危険を顧みず、権力批判を辞さない新聞社を創設したそうです。担当記者は私たちの訴えに耳を傾け、その後サンライズ会長コックス氏にもインタビューを行った上、718日の紙面で事件を記事にしました。記事の内容は中立的に双方の言い分を並記したものでしたが、サンライズはかなり慌てたようで、架空の人物の投書という形で反論を寄せてきました(『カンボジア・デイリー』」紙掲載記事)。718日の記事で注目すべきは、サンライズの現地マネージャーもトレバー事務局長も公然と認めている送電停止の事実をコックス会長が敢えて否認したことです。さすがに新聞紙上で自らの人権侵害行為を認めるのは憚られたのでしょう。

私たちはまた子供たちやトーラエムさんとともに、人権団体を名乗るローカルNGOを幾つか訪問して回りました。唯一曲りなりにも問題を取り上げてくれたのは、人権NGOとしてカンボジアで最も名の知れたリカドです。リカドのプノンペン本部が関心を示し、本部から派遣された調査員が1度、シェムリアップ支局の調査員が2度、クルサー・リッリエイおよびサンライズの双方を訪ねて調査を行いました。ところがリカドが最終的に出した結論は「リカドは人権団体であって、子供のスペシャリストではないため、自分たちはこの問題について判断を下す立場にはない」というまったくの腰砕けでした!これほど明白な人権問題を「子供の問題」にすりかえることによって逃げを打ったとしか思えません。リカドに限らず、カンボジアのローカルNGOは掲げる大義名分と実際の活動の間のギャップがあまりに大きい、というのが私の正直な感想です。私はカンボジア国内で活動する人権・子供関係のNGO、約200団体に向けてメールで一斉にアピールを発信しましたが、数箇所から反応があったほかは、すべて梨のつぶてでした。

そんな中、8月半ば、数年来SRPOに対して昼食(デリバリー式の給食)支援を続けてきたバンコクエアウェイズから突如支援打ち切りの連絡が入ってきました。サンライズが兵糧攻め体制を確立した200412月以来、バンコクエアウェイズの支援はSRPOにとって最後の大きなライフラインだったのですが、ついにそれも絶たれてしまったのです。こうなると、いよいよ私たちのか細い個人的支援がなければ子供たちが飢え死にするのは必至の状況になってきました。私たちは9月にバンコクでバンコクエアウェイズの支援担当者と訪問し、支援打ち切りの理由を尋ねましたが、やはりこの決定にサンライズが一枚噛んでいることは明らかでした(アピールW)。

カンボジア国内での運動が壁に突き当たる中、101日というXデーはしだいに迫ってきていました。3月には危機回避に尽力してくれたフンシンペック党の政治家も、またシェムリアップ州知事も、今回は匙を投げていました。社会福祉省の決定の背後にはサンライズが頼みとするフンセン首相の意思が働いているので、決定を覆すことは不可能であり、トーラエムさんは孤児院を退去するしかないというのです。トーラエムさんがあくまでそれを拒めば、警察による強制執行が行われるという情報も入ってきました。勝利を確信したサンライズは、トーラエムさん退去の後に運び込む数十脚のベッドを9月の時点ですでに用意していました。そんな中、当のトーラエムさんだけは動じる気配すら見せませんでした。「私は何一つ間違ったことはしていないのだから、悪い結果にはならないですよ」と言って、微笑むのです。私たちは活路を国外に求め、国際世論に訴える道に舵を切ることにしました。相手がサンライズであれ、カンボジア政府であれ、世界中が事態の成り行きを注視し、監視していることを彼らに知らしめること、いわば外圧をかけること、それ以外に手はないと思われたのです。

すでに6月の時点で私たちの戦列に加わっていたフォトジャーナリストの大島俊一氏と山田浩次郎氏が中心となり、922日から25日まで東京で展示会を開催しました。子供たちの手紙と写真を展示し、「お母さんを奪わないで!」と叫ぶ子供たちの窮状を多くの方々に訴えました。同時にまた私たちは日本に駐在するオーストラリアのメディア、シドニー・モーニングポスト紙とオーストラリアABC放送に対し、サンライズの人権侵害を訴えました。

Xデー直前の数日間、私たちは日本、マレーシア、シンガポール、ドイツの4カ国から一斉に各国駐在のオーストラリア大使館、および在カンボジアのオーストラリア大使館に向けて抗議のメールを送りつけるとともに(オーストラリア大使館への抗議メールT)、日本では外務省に一斉メールを送ってオーストラリア政府への働きかけを行うよう訴えました。また万一トーラエムさんが強制的に排除され、投獄されるケースも想定して、あらかじめAMNESTYのロンドン本部とオーストラリア支部に対してメールで協力を依頼しておきました。

その上で私は再度コックス会長にメールを送り、反省と翻心を促しました。しかし、彼女からは脅迫じみた返信メールが一度送られてきただけでした。私たちがオーストラリア政府を巻き込んだことに怒りを示し、かくなる上はフンセン首相に事態の解決を要請するので覚悟しておけという内容のメールでした。フンセンの意に反する判決を下した裁判官も、野党党首のソムレンシーも国外に追放されるようなこの国においては、コックス氏のメールは(『カンボジア・デイリー』がすぐに興味を示したように)私に対する明らかな脅迫状でした。

私たちはこうしてあらゆる手を講じた上で101日を迎えました。前夜から大島氏と山田氏が孤児院に泊り込んで警戒にあたりました。万一政府がサンライズの意を汲んで強制執行に出てきた場合、その様子を、そして子供たちが体を張って「お母さん」を守ろうとする姿を記録に収めるつもりでした。ところが101日は何も起こらずに過ぎました。その後も10月の前半は警戒を怠りませんでしたが、結局何事も起こらぬまま、1ヵ月、2ヵ月と過ぎていったのです。サンライズが搬入しようとしていたベッドは(2007年の今日に至るまで)サンライズの施設の入り口付近に山積みされたままです。こうしてトーラエムさんと子供たちは2度目の危機を乗り切ったのです。