目 次
Welcome to クルサー・リッリエイ
クルサー・リッリエイの「お母さん
クルサー・リッリエイの子供たち
クルサー・リッリエイ前史
NGOが子供たちを兵糧攻め?
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クルサー・リッリエイ誕生以後
(2005年10月以後)
支援ネットワーク
教育支援の里親
Self-Help プロジェクト
クルサー・リッリエイ収支報告
近  況
「クルサー・リッリエイ便り」
現地からの報告
参 考 資 料
アピールT 20005年9月15日
アピールU 2006年1月
アピールV 2006年6月
アピールW 2007年1月
オーストラリア大使館への
抗議メールT2005年9月
オーストラリア大使館への
抗議メールU2006年3月
『カンボジア・デイリー』掲載記事
David Jarboe氏の証言
子供たちの手紙(全23通) 
2005年6・8月
子供たちの手紙(全16通) 
2006年1月
子供たちの手紙(抜粋5通)
サンライズ会長コックス氏との
メール交信記録
少女Tの日記
少女Kの日記

クルサー・リッリエイ誕生以後 (200510月以降

 200510月から11月にかけて、私たちはSRPOを新たなローカルNGO「クルサー・リッリエイ」として登録することに成功しました。これまで便宜上SRPO(シェムリアップ州立孤児院)という言い方をしてきましたが、200412月の時点で政府は管理・運営責任をすべてサンライズに丸投げしてしまったわけですから、州立孤児院としての実態は消滅していました。しかし政府から委託を受けたサンライズも終始責任と義務を放棄してきたわけですから、サンライズ孤児院とも呼べません。政府とサンライズの双方から1年近くにわたって遺棄されるという異常な状況に置かれたまま、この孤児院の所属は宙に浮いていたのです。

しかし私たちが孤児院をNGO登録したのは、宙に浮いた格好の孤児院に実態に即した名前をつけたかったからではなく、ひとえにトーラエムさんと子供たちの安全を確保するためでした。というのは、トレバー事務局長はかつて、トーラエムさんが孤児院を退去したときにもし子供たちが彼女についていくようであれば、トーラエムさんを児童誘拐罪で告訴し、刑務所に送ってやると豪語していたからです。もちろん子供たちの意思は明確です。子供たちは口をそろえて、死んでもサンライズの下で暮らすのは嫌だと言っているのです。とすれば、万一の場合に備えて、NGOという受け皿が必要でした。NGOという形があれば、万一トーラエムさんが孤児院を退去し、どこか別の場所で子供たちと一緒に暮らしても、児童誘拐罪は成り立ちません。

こういう経緯で誕生したNGOですが、子供たちはそこに未来に向けた夢の形を見出したのです。「クルサー・リッリエイ」(クメール語で「幸せ家族」)という名称は子供たちが即座に発案したものです。「お母さん」を奪われたくない、「お母さん」と一緒に家族全員で暮らしたいという気持ちをそのまま言葉化したものが、クルサー・リッリエイなのです。 

クルサー・リッリエイの誕生とともに、私たちの活動はサンライズへの抗議からクルサー・リッリエイ支援に軸足をしだいに移すことになりました。もちろんサンライズがトーラエムさんの追い出し工作を続け、検問規制によって支援妨害を続けている限り、サンライズに対して抗議の手を緩めるわけにはいきませんが、それにもまして、子供たちの日々の生活をどうやって支えていくかという現実的課題が大きく私たちの肩にのしかかってきました。

支援ネットワークの形成という意味で、この年の9月に大きな出会いがありました。ハイディ矢野さんが率いる若者のボランティアグループ、クラブワンネスとの出会いです。クラブワンネスは長年フィリピンで孤児院支援を行ってきましたが、2005年から支援対象をカンボジアに広げることになり、当初はまずサンライズ孤児院を支援訪問しました。ところがその折サンライズの奥にもう一つ別の孤児院(クルサー・リッリエイ)があることに矢野さんが気づかれたのです。その後、私は日本で矢野さんにお会いし、クラブワンネスの総会でクルサー・リッリエイをめぐる特殊な状況についてご説明しました。それ以後、クラブワンネスはクルサー・リッリエイの最大の支援団体として、トーラエムさんが今の場所を追い出された後の新孤児院建設も視野に入れつつ、子供たちを物心両面で支えてくれています。

同じく9月、東京での展示会を訪れてくれた方々の中から日本では最初の里親が誕生しました。また展示会を訪れてくれた津村幸子氏が取り持つ縁で横浜長老教会の方々が共同で里親支援に参加してくれました。さらに2006年、2007年と時を経るうちに、現地で直接クルサー・リッリエイを訪問してくれた方々も次第に増え、その中からも里親支援を引き受けてくださる方が出てきました。20077月現在では日本だけで14組の里親が持続的に子供たちの生活と教育を支えてくれています。

里親第1号は20055月から5人の子供たちに支援を開始したドイツのSchaber夫妻です。Schaber氏は同時にヨーロッパでのクルサー・リッリエイ支援の窓口役を果たしてくれています。ヨーロッパでの里親は現在4組まで増えました。
 さて、200510月以降、サンライズおよび社会福祉省は奇妙なまでに鳴りを潜め、動きが見えなくなっていました。私たちの様々な抗議活動、特にオーストラリア大使館への訴えが効を奏し、特にサンライズは手を縛られていると思われましたが、そうは言っても彼らが当初の計画を諦めたとは考えられませんでした。200511月末から20061月にかけて、私たちはトレバー事務局長と3回にわたって話し合いを行いました。その結果、いくつかの重要な点が明らかになりました。

(1)     トレバー氏はサンライズが犯した唯一の間違いとして電気を止めた事実を認めました。コックス会長が『カンボジア・デイリー』紙上で否認した事実を改めて認めたわけです。トレバー氏によればトーラエムさんがランドリービジネスをしているという誤った情報に基づいて電気を止めたのだと言いました。しかし仮にランドリービジネスをしていたとしても何故電気を止めたのかと問うと、電気代が高くなり、自分たちの負担が増えるので、送電を止めたというのです。ここで彼らの姿勢が浮き彫りになってきます。政府からSRPO(クルサー・リッリエイ)の運営を委託されたと言いながら、SRPOは自分たちの管理下にあると自らの権限だけは主張しながら、実際には扇風機や電灯の電気代さえ負担することを拒んだわけです。明白な責任放棄です。しかも「間違い」を認めたとはいえ、今日に至るまでこの犯罪的行為に対する具体的な謝罪も補償もいっさい行われていません。

(2)     トレバー氏は水を止めたという私たちの非難は事実無根だと言い張りました。何故なら200412月にサンライズ孤児院でも水道は一時止められたのであり、水道を止めたのは自分たちではなく、水道会社だと言うのです。水道会社に料金を払ってサンライズ孤児院の水道は復旧したが、SRPO(クルサー・リッリエイ)の水道のことまで自分は関知していないと言うのです。仮にこれが事実であるとしても、それはそれでまたしてもサンライズの責任放棄の姿勢を浮き彫りにしています。政府から子供たちのケアーを委託された以上、電気も水道も、そして食料も、すべて本来サンライズが支給すべきものです。現実にそれを怠ったということは、サンライズにはクルサー・リッリエイを管理・運営する資格はないということでしょう。まして彼らにクルサー・リッリエイ支援を妨害する権利などあろうはずがありません。

(3)     サンライズが過去1年間管理・運営責任者としての義務(水、電気、食料その他の支給)を放棄してきたことについて追及すると、トレバー氏は、サンライズは食料支給をオファーしたのにトーラエムさんが受取を拒否したのだから責任はサンライズにはない、という常套句の言い訳を繰り返すのみでした。この言い訳が事実に照らして通用しないことは証明済みです(アピールW)。

(4)     トレバー氏は、私たちがアピール文書をオーストラリア大使館に送ったことでサンライズが大きなダメージを受けたことを指摘し、私たちにオーストラリア大使館への訂正メールを要求してきました。もちろん私たちがこの筋違いの要求に従うはずはありません。

(5)     トレバー氏は私たちが新しい孤児院を作って子供たちを引き取るタイムスケジュールを明確にするならば(かつトーラエムさんが二つの孤児院の間のフェンスを撤去するならば)、それまでの間、毎日食料を提供すると提案してきました。さらに今トーラエムさんと子供たちが退去するならば、政府から5000ドルが支給され、それに加えて向こう1年間、自分のポケットマネーから毎月1トンの米を支給すると提案してきました。

 これに対して私たちはトレバー氏に逆に次のような要求を突きつけました。

   (1) サンライズが過去1年以上にわたって政府から孤児院運営の委託を受けた者としての責任を放棄してきた以上、サンライズは一切の支援妨害行為をただちに停止するとともに、委託を返上すべきである。この場合、私たちが責任をもってクルサー・リッリエイの運営を行う用意がある。

(2) サンライズがあくまでトーラエムさんと子供たちを今の場所から追い出すのであれば、サンライズはこれまでの義務不履行に対する相応の補償、ならびにこれまで子供たちが受けた精神的・経済的損害に対する補償、さらには移転に際して携行できない不動産に対する補償を行うべきである。

 トレバー氏は私たちの要求を即座に拒否し、いずれは必ずサンライズが「勝利」するのだから、トーラエムさんは今自分のオファーを受けて「平和的」に孤児院を退去した方が得であると言いました。サンライズがオーストラリア大使館によって手を縛られているのは明らかでした。だからこそ、トレバー氏は私たちがNGOを立ち上げたという情報を政府から得て、私たちが新しい孤児院を作って子供たちとトーラエムさんを引き取れば自らの手を汚すことなく、自らの責任を不問にしたまま、問題を解決することができると考えたのでしょう。 

2006年に入ってから、支援ネットワーク作りに向けたBob Lee氏の動きが活発化してきました。1月末にBob Lee氏がクルサー・リッリエイに連れてきたJohn Dennis牧師のグループは、トレバー氏の不誠実な対応を自ら目の当たりにしたこともあり、その後も今日に至るまで継続的に支援を続けてくれています。またBob Lee氏が4月にマレーシアから連れてきた数人の友人は以前バンコクエアウェイズによって行われていた昼食支援を20067月から半年間限定で復活させるため、毎月総額400ドルを提供してくれました。さらにBob Lee氏は故国アメリカのオレゴン州でも精力的に動き、著名なギタリスト、エンリケ・ヘナオ氏の支援を取り付けたのです。エンリケ氏は駐米オーストラリア大使と会ってサンライズの不正を訴えるとともに、万一サンライズが子供たちの「母親」を追放する暴挙に出た場合にはNBCテレビのニュースキャスターをしているエンリケ夫人が問題を大きくテレビで取り上げるというのです。さらにエンリケ氏は新しい孤児院を建設する資金作りに向けて、夏にチャリティー・コンサートを開いてくれることになりました。心強い味方が現れたものです。一方では、日本のクラブワンネスも新しい孤児院建設に向けて次々とチャリティー・イベントを打つ方針を総会で決定しました。 

しかしながら、少なくともまだこの時点においては、子供たちの意思は必ずしも「新しい」孤児院という方向には向いていませんでした。オピニオンリーダー的な数人の子供たちは、自分たちの方から今の場所を自発的に出て行くのは筋が違う、という考えでした。新しい孤児院に移るのであれば、サンライズがこれまでの犯罪的行為を詫び、その補償を含めて新たな施設を用意するのが筋であろう、というのです。たしかにこれは道理であり、私たちもこの子供たちの意思に従って、1月に前記の要求をサンライズに突きつけたわけです。こちらから進んで今の場所を明け渡すのは、サンライズを喜ばせるだけです。サンライズの本当の狙いは彼らが建て前で言うような「子供たちの幸せ」ではなく、土地の入手であることは、これまでの彼らの行動が証明しています。

しかし、私たち支援者としては、子供たちとともに正当に「道理」を主張しつつ、しかし同時に「無理」が「道理」を押しのけてしまうカンボジアの現実を考慮しなければなりません。 

トレバー氏が20061月以降幾度も政府高官と会議を重ねた後、4月末にフンセン首相の補佐官がシェムリアップを訪れ、社会福祉省シェムリアップ局の官僚との会議を開きました。そして5月半ば、同補佐官からシェムリアップ州知事とシェムリアップ警察署長に宛てられた書簡のコピーが社会福祉省経由でトーラエムさんのもとに届けられました。内容は、トーラエムさんの退職・退去に関する決定を通知するとともに、トーラエムさんがこの決定に従わない場合には裁判手続きを経て強制執行を行うというものでした。注目すべきは、ここにきてフンセン首相の補佐官が前面に出てきたということです。地方の一孤児院の問題でフンセン首相が補佐官を通じて介入を行ってきたわけです。裏でサンライズの政治工作が行われたことは明らかでした。20059月にコックス会長も「フンセン首相に訴える」と言って、いわば政治工作を宣言していました。オーストラリア大使館に手を縛られたサンライズが取りうる唯一の選択肢は、決して自らを表舞台に晒さない政治的裏工作だったのです。

私たちは社会福祉省を訪れて情報収集に努めるかたわら、裁判に備えて民間の弁護士事務所や法律関係のNGOを訪ねて回りました。そこで分かったことは、カンボジアでは裁判官により多く金を積んだ方が裁判に勝つという原則です。法の番人たるべき裁判官にしてこの有様ですから、法の適用と執行が官僚や警察の恣意に委ねられているのも不思議ではありません。形だけ法は存在しても、法治国家というにはほど遠いのが、この国の現実です。私たちはは賄賂を払ってまで裁判を戦うことは断念し(賄賂合戦となればおそらくサンライズが勝つでしょう)、むしろ裁判に負けて国際世論の良識に訴える道を選ぶべきだと考えました。この時点で私たちは、トーラエムさんが孤児院を追い出され、子供たちが「母親」の後を追って孤児院を出る場合に備え、3ヶ月分の家賃、1200ドルを前払いして好条件の貸家を確保しました。

ところが、20066月になって事態は意外な展開を見せました。社会福祉省の大臣が自らシェムリアップに来て、事態の収拾に乗り出したのです。これまでサンライズはしばしば所轄の社会福祉省を跳び越えて、いわば社会福祉省の頭越しにフンセン首相に訴えて決定を取り付けてきたので、社会福祉省の人間は内心それを苦々しく思っていたという話をある筋から伝え聞いていました。先のフンセン首相補佐官による決定とそこから予想される事態を目前にして、ここにきてようやく社会福祉省大臣がイニシアティブを取り戻したようです。大臣はトーラエムさんとサンライズ代表者を呼んで会議を開き、フンセン首相補佐官による決定を反故にする形で新たな調停案を提示したのです。すなわち、政府はトーラエムさんが退職した後に住む個人住宅(4m×8m、鉄筋煉瓦造り)を建設するので、その家が完成した時点でトーラエムさんは孤児院を退去するものとし、家の建設費はサンライズが負担するものとする、という調停案です。家は45人の子供たちが一緒に暮らすには小さすぎますし、場所も市街から遠く離れた郊外なので、もちろんこれは子供たちにとってもトーラエムさんにとっても満足のいくものではありません。しかし、政府からこれ以上の譲歩を引き出すことはできないと判断したトーラエムさんは、フンセン首相がその家屋と土地の所有権に関して一筆認めるという条件つきで、この調停案を承諾したのです。

トーラエムさん個人の住宅を造る費用をサンライズが負担するというのは、考えてみれば筋違いの奇妙な話ではあります。しかし、そもそもトーラエムさんの排除がほかならぬサンライズの意思であり、サンライズにとって大きな利益となるからこそ、大臣もサンライズに負担を命じたのであり、サンライズもこの調停案を呑んだのでしょう。

いずれにせよ、トーラエムさんが、したがってまた子供たちが今の施設を退去するのは、時間の問題となったわけです。その意味では、私たちは少しでも早く新しい孤児院を建設したいところです。ところが9月にポートランドで開かれたエンリケ氏のチャリティー・コンサートは、十分な数の協賛者を確保しなかったという興行技術上のミスから失敗に終わったのです。このコンサートの収益で土地を購入する目論見だったのですが、収益という観点では成果はゼロに等しかったのです。加えて、シェムリアップにおけるここ23年の土地高騰(ほとんどバブル)により、基本的な条件(広さと立地)を満たす土地は5万ドル以下では手に入らなくなってしまいました。孤児院建設の見通しが立たない以上、貸家(月400$〜500$)を借りるということも改めて視野に入れざるをえない状況になってきたわけです。

そうこうするうちに、20075月、トーラエムさんの個人住宅が完成したことが分かりました。しかしそれから2ヶ月を経た20077月現在、いまだに社会福祉省からトーラエムさんのもとに何の通知もありません。土地がアプサラ(考古学局)管轄下にあるため、フンセン首相といえども、その土地の個人所有を公に認めるのは法的に難しいのかもしれませんが、その辺の事情は想像の域を出ません。今の状態がこのまま続くことを祈るのみです。しかし客観的にはいつトーラエムさんに退去命令が通知されてもおかしくない状況ではあります。 

政府がいつどのような行動に出てくるにせよ、私たちが今できることは、支援ネットワークの拡充に全力を注ぐことです。2006年以降、口コミでクルサー・リッリエイを訪れる支援者が再び増えてきました。また2007年からは日本の某旅行社がオプショナルツアーで旅行者をクルサー・リッリエイに送ってくれています。サンライズは今なお正門から入ろうとする訪問者に対しては、安全対策という口実で警備員による不当な検問を実施し、個人情報の提出を要求しているので、ほとんどの場合、私たちは隣接する小学校の校庭を抜ける裏道を使って訪問者をクルサー・リッリエイに誘導しています。

 2006
9月にはルウィン教授率いる熊本学園学生グループとの出会いがあり、2007年初めにはシンガポールのGail Patin氏が率いる学生グループとの出会いがありました。
いずれも以前から定期的に支援に訪れているグループでした。また2007年夏からカンボジア人ガイドのジョン・テング氏がクルサー・リッリエイ支援を開始。彼を通じて幾人ものオーストラリア人やアメリカ人が食糧支援や教育支援を始めました。

 2007年9月に日野尚美さんがmixiにクルサー・リッリエイのコミュニティを立ち上げてくれました。支援ネットワークを活性化する上で大きな一歩でした。2007年11月30日現在でメンバー数は87人。アドレスはhttp://mixi.jp/view_community.pl?id=2636632